Home > 美濃焼の里 駄知陶磁史

美濃焼の里 駄知陶磁史

どんぶり生産日本一の町「駄知町」の歴史は、いつから始まったのでしょうか。

美濃焼の里 駄知の陶祖

DSC_0112 DSC_0111
※写真は左が白山神社、右が駄知陶史碑

 いつからこの駄知に人が移り始めたのか、記録はありませんが、1500年頃からいくつか窯があったことが古い書物から確認できます。
では、窯業をこの駄知に伝えたのは誰なのでしょうか。
時は戦国の世。すでに窯業が盛んであった瀬戸は、その土地をめぐって争いが続いていました。陶工たちは土地を逃れ、この駄知に入ってきたのだと推測されます。また尾張の信長は産業道路を作るなど、窯業の保護にも努めていたことも要因としてあげられます。
 駄知の陶祖はいろいろな説があります。
水野家には、「1436年水野惣九郎が瀬戸より移り住んで窯を立てた」とあります。また加藤家には「1604年加藤作十郎景治が瀬戸より移り住んで窯を立てた」とあり、この景治は美濃焼陶祖与三兵衛景光の家系にあたります。
また塚本家には、「1578年に六右兵衛が瀬戸の陶工に習い、窯を開いた」とあり、「塚本喜助が森向戸の川底に良土を発見して、1619年に岩村城主に焼いて献上したところ、1661年に岩村の御用窯を勤めた」とあります。
 駄知陶祖ははっきりとしていません。故に陶祖の碑には名前は刻まれていないのです。
しかし古くから陶工たちが移り住み、窯業が伝えられていたことは、紛れもない事実といえます。

江戸時代の岩村藩御用窯と塚本亀吉

DSC_0253 DSC_0241
※写真は左が駄知土瓶、右が明治の駄知丼

 この時代、陶器は藩の重要な特産品でした。そのため、その窯業の保護と乱造を避けるため、「窯株制度」がありました。この制度は窯株をもったものでないと、窯をやくことができず、だれもが窯を焼けるわけではなかったのです。
 この時代、特に有名だったのが、「駄知土瓶」でした。岩村藩御用窯となった塚本家の塚本源右衛門が作った土瓶は、非常によいものだったので、藩主松平能登が「岩村藩物産」の名をもって、江戸や全国各地へ販売させたのでした。そのため、駄知の名は全国へと知られるようになりました。
 そして時代は陶器から磁器の製造へと変わってきます。1608年に有田で陶石を発見して、磁器の製造が始まってから200年。磁器の製法は瀬戸にも伝わり、やがて駄知にも新製焼(磁器)が伝わってきました。江戸の後期に生まれた塚本亀吉は、彦根藩窯湖東焼で技術を学び、1860年頃に駄知で初めて伊万里風のどんぶりを焼いたのが、「駄知どんぶり」の始まりとされています。当時は製作者の名をとって、「亀吉どんぶり」として親しまれていました。
腰張り丼は駄知の代表的などんぶりで、明治中期になって量産され、全国的に有名になり、「駄知どんぶり」と呼ばれるようになりました。「亀吉どんぶり」は明治、大正、昭和の駄知どんぶり隆盛のもととなったわけです。
また、この時代、窯株も35あり、登り窯は30基近くになっていました。

明治維新後の駄知の発展

 明治維新は窯業界にも大きな影響がありました。窯株制度の廃止により、誰もが窯をやくことができるようになり、同じように、陶器商にあった「仲買鑑札」制度もなくなり、誰もが商売ができるようになりました。
 そして、生業としていた農業をすて、商人となった正村佐右衛門、加藤作次郎が駄知ではじめての駄知陶磁器商となったのでした。
 とくに、カクサ加藤作次郎、ヤマ正塚本享二、カク仲白石仲七、ヤマ九正村銕次、カネ休籠橋休兵衛は明治20年代には多治見に進出し、明治35年には正村佐右衛門、酒井半次、塚本鉄之助を加えた8人が勢力を伸ばし、駄知陶業の発展と巨万の富を築いたのでした。

駄知陶業中興の祖 籠橋休兵衛らの3大事業

駄知の陶業の発展において、籠橋休兵衛らが起こした事業は大変重要な意味を持っています。
林休衛

「駄知実業銀行の設立」
 明治初頭、銀行はまだ数少なく、駄知の金融機関といえば、個人営業金貸に頼るしかありませんでした。それでは大きな商売はできないと、東京にあった実業銀行の買収誘致を行い、駄知に銀行を作ったのでした。その支配人には長久寺の和尚が就任。前代未聞の珍事ではあるが、荒廃寺だった長久寺を再建した手腕をかった休兵衛の起用でした。そしてこの銀行の果たした役割は、金融だけにとどまらず、駄知の企業が同業界の中でより強固になっていく大きな手助けとなったのでした。

「電気事業」
 明治後期になると、窯業界にも機械が導入されつつありました。休兵衛らはその動力となる電気が今後の窯業の発展に、多くの恩恵をもたらすと考えていたのでした。そしてついに、明治41年に駄知を流れる駄知川(現在の肥田川)の水力発電が計画され、大正2年には第1発電所が完成し、町に電気の灯りがともりました。自らの力で、村営の電気事業をついに成し遂げたのでした。この電気事業のおかげで、駄知町の窯業の近代化が急速に進み、その後の果たした役割はたいへん大きなものでした。
電気事業の碑

「駄知鉄道」
駄知線
 明治時代の運送といえば、馬による運送しかなく、多治見や瀬戸に比べ、駄知の陶業は地理的に不利な条件を持っていました。運搬の問題は、美濃陶業界に覇を唱えようとする上で、取り除かなければならない要因だったのです。中央本線の設立時に、恵那から陶、駄知、笠原、瀬戸、春日井というように、陶産地を通るように運動を起こしますが、結果、現在のルートとなってしまいました。 しかし、どうしても鉄道を引きたい休兵衛らは、自らの手で鉄道を引くことに奔走しました。しかし大正10年、休兵衛は駄知鉄道開通をみることなく、死去。最期まで駄知鉄道ことを気にかけていたといいます。その翌年の大正11年、ついに駄知鉄道は開通しました。
 そして大正、昭和にかけて、多くの原料、燃料、陶磁器、人を運び、駄知陶業の発展に大きな力となったのでした。昭和19年、駄知鉄道は東濃鉄道駄知線となりました。戦後の燃料費高騰をきっかけに、昭和25年、全線電化による設備の近代化を実現しました。当時はそれができるほどの鉄道でした。しかし1960年代には輸送手段が自動車へと変わり、赤字へと転落していきました。さらに、昭和47年の水害によって鉄橋が流出してしまい、その再建の目処が立たず、半世紀にわたって陶業を支えて続け、愛された鉄道は、廃線となってしまうのでした。

近代駄知の焼き物と太平洋戦争

「窯の移り変わり」
DSC_0030
※写真 単窯

 明治時代までは登り窯での薪焼成でしたが、明治44年に、県費をもって石炭窯を初めて駄知町に築きました。県内陶産地として、駄知が不動の地位を築きつつあった証拠とも言えるものでした。 大正、昭和と時代が移り、登り窯は石炭窯(単窯)へと変わりました。
 町内には登り窯は一つも残っていません。窯業の近代化と住宅地造成によってすべて消えてしまったのです。
 また輸出向け大量生産へ向かったことで、窯業の近代化と分業体制(製土工場、上絵付加工など)がさらに進んでいきました。昭和6年に駄知陶磁器工業組合ができ、このときの窯焼は121戸、働く人は1300人に登っていました。

「太平洋戦争」
DSC_0235 DSC_0240
※写真は左が金属代用品、右が防衛食器

 戦争の色が濃くなってくると、輸出向け陶磁器はまったく売れなくなりました。また石炭は配給制となり、手に入らなくなりました。昭和16年からは軍需機械や金属代用品の生産をするようになり、働き盛りの人は兵隊に取られ、窯業は出来なくなりました。それでも岐阜県下では、金属代用品の耐火鍋や土瓶を一番多く製造し、戦時中も続けていくことができました。敗戦が濃くなり、アメリカの飛行機が飛ぶようになると、夜に火を焚くことが出来ない状況でした。
 昭和20年、戦争は終わりました。敗戦によって不自由な統制は解かれ、また自由に窯業ができるようになった駄知町では、一気に窯焼きが増えて、昭和32年には163戸、180基の窯があり、戦後の復興へとなっていくのでした。

戦後のトンネル窯と大量生産

DSC_0043
※写真 トンネル窯

 昭和32年、製陶業に従事する人は2600人。集団就職によって、九州や東北、長野、新潟から人がくるようになり、工場には社宅ができ、昭和47年には1万3千人、人口のピークを迎え、人口密度も県下ではトップクラスでした。
 その大躍進を作ってきた窯がトンネル窯です。このトンネル窯は、トロッコに乗せて焼き、24時間、年中火を消さない窯なので、駄知の町は、「火を絶やすことのない町」となり、日本で最大の陶産地となっていきました。
 この窯は、戦時中にできた東濃地区随一の軍需会社、東濃航空機工業会社(飛行機部品を作っていた会社。ピーク時には4千人が働いていました。駄知線の終点は東濃航空機工業会社と繋がっており、軍需部品を駄知線で運んでいました。)が、敗戦後、高砂工業、東濃陶器、東産工業となり、そこで苦心の末の研究開発がされ、昭和24年、民間第1号のトンネル窯が山津製陶にでき、戦後の駄知陶業に大きな足跡を残しました。
 そして燃料も石炭から重油へ、重油からガスへと変わっていき、現在へと引き継がれています。

人間国宝 塚本快示

1 快示作品写真小
※写真は塚本快示、左が快示の作品

 塚本快示は大正元年、天正年間(1573年~92年)から続く窯やの長男として生まれました。
 塚本家は上記にある岩村藩の御用窯、駄知土瓶を作った塚本源右衛門を先祖に持つ家系で、江戸時代末期からは染付磁器の丼や鉢、皿を得意とする窯元でした。
 窯元の長男として生まれた快示は駄知町立尋常高等小学校高等科を卒業し、すぐに家業に従事しました。昭和18年小山冨士夫の「影青襍記」を読み、中国陶磁器の美に感銘を受け、青白磁の研究を始めました。戦後となった昭和23年、意を決し、鎌倉に住む小山富士夫を訪ねました。初めてあった小山から北宋代の青白磁と白磁の陶片を見せられ、小山からそれら数点を譲り受けたのでした。その陶片を参考としながら、技法の解明と再現を目指し、ついに初めて中国古陶磁の青白磁と白磁を現代に再現したのでした。
 快示はシンプルな青白磁に、彩りを添えるため、彫りの技術も磨き、その文様によって本歌にはない独自性と格調を与え、古陶に勝るとも劣らない作品を生み出しました。
 そしてその技は、「神品」とまで評され、昭和58年、70歳で白磁・青白磁の人間国宝に認定されました。
 駄知に生まれ育ち、生涯をかけて、独自の美感を映し出し、頂点まで上り詰めた陶芸家が塚本快示なのです。

  • 駄知陶磁史
  • 駄知丼メニュー・飲食
  • 駄知観光スポット
  • 特産品・お土産
  • 年間行事・イベント
  • 瓦版「あののう」
  • 窯風マップダウンロード
  • 駄知町へのアクセス
  • その他リンク
  • 窯風の里ホーム
ba-yamagami ba-kakino ba-chigo ba-hinaya ba-kyusya ba-suribachi ba-donburi ba-kamamotomeguri ba-kamayamaturi

このページのTOPへ↑